島津義久の野望 第08回「四国防衛戦」
1584年5月
現在威信188国6城12武将37総兵力46628
織田家・徳川家・北条家に次ぐ4番目の威信の高さになる。
織田の国を一つ手に入れたが早速織田家の三好政康率いる2320の兵が四国上陸。
海路から織田信忠率いる4500の兵が迫っている。
織田の兵力を減らす為にこれを迎え撃つ。
四国の南の中村城へは長宗我部が兵を向けている。必要なら援軍を出すのでなんとしても攻め落としてもらいたい。
まずは当主自ら5700の兵を率いて三好の部隊へ攻撃を仕掛ける。
島津軍5700VS織田軍2320。5月5日圧勝。
その後毛利が織田の城を落とす。
長宗我部軍も中村城を奪還。四国から織田軍が気配を消した。
1584年6月
信忠率いる部隊が海路を進んでいく。
九州の領内が襲撃を受ける危険が減ったため四国の湯筑城に兵を集めて織田との決戦に備える。
信忠率いる部隊に攻撃。初の海戦。
6月4日圧勝。
信忠と黒田如水を捕えたが残念ながら登用できなかったので斬首。
1584年7月
再び織田軍が四国へ兵を向ける。
織田信澄率いる5384の兵。ひとまず本体は十河城へ避難。
十河城からなるべく多くの人員と兵を勝瑞城へ移動。
1584年8月
織田軍が勝瑞城へ隣接。
十河城から出陣。野戦。
圧勝。この調子で織田家の武将を減らしていきたい。
1584年9月
官位取得のために朝廷へ献金始める。
同盟国へ援軍要請。長宗我部家と成立。毛利は2ヶ月かかる。
1584年10月
またも織田軍が四国へ。
しかも中国地方から蒲生氏郷率いる2726の兵が出現。
当主自ら鈴木重秀の部隊へ攻撃。
10月5日勝利。秀吉を登用。
毛利へ援軍要請するが失敗する。
1584年11月
野戦勝利。朝廷へ献金。友好度186に上がる。
1584年12月
野戦2日で勝利。
1585年1月
織田家と開戦して1年が経過
島津家 威信204 国6 城12 武将47 総兵力57555
織田家 威信416 国12 城31 武将149 総兵力170474
三倍以上の兵力差があるが度重なる勝利のおかげで威信は高い。
1585年2月
野戦。圧勝
1585年3月
野戦。圧勝
大谷隊へ一撃必殺で勝利
四国から織田軍が姿を消した。
1585年5月
阿波守護を自称。織田に次いで威信が二番目に高い大名となる。
島津家 威信234 国6 城12 武将48 総兵力62371
織田家 威信410 国12 城31 武将141 総兵力187726